パネル展示
ここでは、遺構展示施設の2か所で提示されているパネルを紹介します。
(遺物の紹介パネルは、「遺物展示」のところで紹介しています)
解説パネル1:野洲川流域の遺跡群
このパネルでは、野洲川下流域にあった主要な遺跡の地理情報や年代情報を解説しています。
また、伊勢遺跡、下之郷遺跡、服部遺跡の概要および伊勢遺跡発見の経緯を紹介しています。
部分拡大したパネルを以下に紹介します。
市内の遺跡分布
主要な遺跡の紹介
野洲川下流域の遺跡群
守山市域には、野洲川が形成した広大な沖積平野がひろがっています。この肥沃な平野には、弥生時代から古墳時代の集落遺跡が多数営まれていたことがわかっています。
野洲川流域の遺跡群によって、稲作が始まった弥生時代から、強大な権力を生みだした古墳時代への移行過程がたどれ、倭国形成への歩みを知ることができます。
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下之郷遺跡 三重の巨大な環濠集落
稲作が定着し、内陸部へ新たな集落が進出するようになります。
弥生時代中期後半(約2200年前)には、集落の周りに三条の大規模な環濠を巡らせた下之郷遺跡が出現しています。東西330m、南北260mを測り、環濠の内部の面積は約七ヘクタールに及ぶ大規模な集落跡です。
集落内からは、多数の弥生土器とともに鍬や鋤、田下駄・竪杵など農工具や銅剣、石鏃や石斧などの石器が出土しています。
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服部遺跡 広大な水田跡の発見
野洲川の改修工事にともなって発見された服部遺跡では、弥生時代前期の広大な水田跡が発見され、早くから稲作が開始されていたことがわかりました。
大畦畔に囲まれた中に、小さな区画の水田が多数営まれ、1枚の田は100uほどの広さで、ミニ水田と呼ばれています。
服部遺跡では、弥生時代中期の方形周溝墓が360基以上見つかったほか、古墳時代前期の竪穴建物など多数発見されています。
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下之郷遺跡 環濠
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服部遺跡 水田跡
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伊勢遺跡 倭国の形成に係る遺跡
弥生時代後期、約1900年前、沖積平野を見渡す標高約99mの扇状地上に、伊勢遺跡が出現します。
紀元1〜2世紀頃、日本列島は倭国と呼ばれ、百余国から30余りの国に統合され、さらにより大きな国に統合されようとしていたことが、中国の歴史書に記されています。
伊勢遺跡では多数の大型建物が、計画的に配置されていることがわかっており、一般的な集落ではなく政治や祭祀を執り行う特別な遺跡であったと考えられます。
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年表
伊勢遺跡の発見
伊勢遺跡 範囲図
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伊勢遺跡は昭和55年、宅地開発にかかる試掘調査で発見された遺跡です。
その後の発掘調査で、弥生時代から古墳時代の竪穴建物が多数発見され、弥生時代後期(約1900年前)の集落遺跡であることがわかりました。平面形が五角形をした竪穴建物が次々と見つかり、滋賀県内でも特異な遺跡として注目されていました。平成4年9月、弥生時代の大型建物SB-1が発見され、全国的に知られるようになりました。
大型建物の発見は衝撃的で、現地説明会では1000名以上もの見学者が訪れました。その後の発掘調査で、さまざまな形の大型建物が次々と発見され、東西700m、南北450mの32haに及ぶ国内最大規模の遺跡であることがわかりました。
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解説パネル2〜4:伊勢遺跡の建物・野洲川下流域の重要性
パネル2と3で伊勢遺跡の中央区画の建物と周辺の祭殿群の解説を行います。
パネル3では、野洲川下流域が日本の東西の結節点として重要な役割を果たしていたことを、銅鐸と近江型の土器から読み解きます。
解説パネル2:方形区画の大型建物と楼観
「方形区画の大型建物と楼観」の拡大
遺跡中心部の大型建物SB-1の発見
平成4年9月、民間の開発に伴う発掘調査によって、弥生時代後期としては国内最大規模の大型建物(SB-1)が発見された。2間×4間(7.8m×11.3m)、床面積88uを測る大規模な建物です。柱穴は長径2.5m〜3.5m、短径1mもある巨大なもので、建物の内側から外側に向かって傾斜をつけて掘られていました。このことは、建物の床面積が単に大きいだけではなく、太く長い柱材が用いられ、高床式の巨大な建築物であったことを示しています。なお、SB-1が廃絶した後、1間×2間(3.7m×6.8m)床面積25uのSB-11が建設されています。周辺には古墳時代初頭の竪穴建物が多数発見されており、古墳時代の集落に伴う大型建物と考えられます。
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主殿と見られる大型建物(SB-1)
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方形区画内の大型建物
その後の発掘調査によって、SB-1を中心に大型建物がL字状に配置されていることがわかりました。そして、これらの建物を取り囲むように二重の柵が巡っており、方形区画と呼ぶ特別な空間を形成しています。SB-1の桁行に沿って西側約8mの地点には、棟方向を90°変えて棟持柱付大型建物SB-2(1間×5間、床面積56.7u)が配置されています。さらにSB-2の南側約9mの地点には、棟持柱付大型建物SB-3(1間×3間、床面積49u)、さらにSB-3の南側7mの地点には小型の独立棟持柱付建物があります。伊勢遺跡中心部には、大型建物SB-1を中心に4棟の建物がL字型に配置されていたのです。
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方形区画の平面配置図
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楼観SB-10の発見
平成10年、方形区画内のSB-1から東へ32m離れた地点で、3間×3間(9m×9m 床面積81u)の大型建物が存在することがわかりました。内側の柱穴は2間×2間の柱穴が並んでいますが、外側の柱列とは軸を異にしています。このことから、多層式の上屋構造をもつ高い建物、楼観と考えられます。3間×3間の外側の柱間には布掘状の溝が掘られており、断面観察の結果、縦板がうち込まれ、建物の外側から直接見えない構造だったと考えられます。SB-10は、伊勢遺跡の大型建物群のほぼ中心にあたる地点に建設されており、政治や祭祀を執り行う重要な施設であったと考えられます。
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楼観(SB-10)
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解説パネル3:円形状の祭殿群と伊勢型の柱穴
「円形状の祭殿群と伊勢型の柱穴」の拡大
円形に配置された祭殿群
平成6年から7年にかけて、伊勢遺跡東側の大洲地区で棟持柱をもつ大型建物SB-8・SB-9の2棟が発見されました。梁行1間×桁行5間(4.5m×9m 床面積40.5u)の同形式・同規模の大型建物です。お互いの棟持柱間の距離は、柱芯で18.4m離れた位置に建てられています。さらにSB-9の西側でも同形式のSB-12がみつかっていて、これらの建物は棟方向が約8°内側に屈曲し弧状に配置されといることがわかりました。このほかSB-4梁間1間×桁行5間(4.6m×9.1m 床面積42u)と棟持柱をもつ大型建物SB-5(4.6m×8.6m 床面積39.5u)が17.8m離れて南北方向に配置されていました。方形区画や楼観を中心に、直径220m程の円周状に、これらの建物が配置されていました。
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祭殿(SB-4)
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祭殿(SB-8)
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祭殿(SB-12)
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斜路をもつ柱穴(伊勢遺跡型)
方形区画中心部のSB-1が発見された際、特異な形の柱穴に注目されました。その大きな柱穴は、一方が浅く階段状に徐々に深くなっており、柱穴が斜路をもって掘られている点で共通しています。深く特異な形状をした柱穴は、太くて長い柱が使用されていたことを示しています。柱穴の底は平たく整形されており、直径約50cmの柱が据えられていたと考えられます。方形区画内の棟持柱をもつ大型建物SB-3も、斜路をもつ柱穴で、太くて長い柱が使用されていたことがわかります。祭殿も同じく斜路をもつ柱穴で、伊勢遺跡の大型建物に共通してみられることから「伊勢型」と呼ばれています
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斜路を持つ柱穴
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解説パネル4:受口状口縁甕と突線鈕式銅鐸の分布
「受口状口縁甕と突線鈕式銅鐸の分布」の拡大
受口状口縁甕の波及
伊勢遺跡の活動期、近江地域に特徴的な受口状口縁甕が、近畿および周辺地域から出土しています。煮炊きに使用された受口状口縁甕は、口縁部から体部下半にかけて文様で飾る特徴があり、器壁も極めて薄く仕上げられています。野洲川流域では、典型的な受口状口縁甕が製作される地域で、湖東・湖北・湖西北部など琵琶湖北半の地域でも、受口状口縁甕が使用されています。琵琶湖地域に隣接する若狭・越前・越中、美濃・尾張、伊賀・伊勢、南山城・乙訓などの地域でも、近江の甕が一定量受け入れられ、それぞれの地域で在地化しています。伊勢遺跡の活動期、近江を中心に周辺地域と活発な交流があったことがわかります。
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受口状口縁甕分布
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突線鈕銅鐸の出現と分布
伊勢遺跡が発達する時代、大型の祭器である銅鐸が製作され、各地で使用されています。弥生時代中期末から後期初頭にかけて、銅鐸を製作する工人が、5つのグループに統合されます。さらに工人は、近畿地方を中心に分布する近畿式銅鐸と、主に伊勢湾岸から静岡県にかけて分布する三遠式銅鐸の二つに統合されます。両銅鐸ともに大型化しており「聞く銅鐸」から「見る銅鐸」へ変化しています。近畿式銅鐸は、大福型と呼ばれる銅鐸が祖型とみられ、4点の内3点が野洲市大岩山から出土していることから、近江東南部の勢力が抱えていた工人が、近畿式の銅鐸を生み出したのではないかと考えられています。
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突線鈕銅鐸の変遷
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大岩山銅鐸群(複製品を含む)
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銅鐸の分布
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