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 コラム
ここでは、伊勢遺跡に関係のある話題を提供します。
考古学として必ずしも認知されている訳ではないが、状況証拠(事実)から想像を膨らませて
「このようなことも推測できる」と筆者が感じている話題です。
卑弥呼の居所はどこ? 建物から考える
魏志倭人伝に書かれた地理情報から「卑弥呼のいる邪馬台国」の所在地が推測されている。
有力なのは、近畿説(奈良)と北九州説である。
邪馬台国近江説もあり、私はいくつかの理由で近江説の可能性が大きいと考えている。
その一つ理由が魏志倭人伝に書かれている「卑弥呼の居所」で、地理情報から離れて、建物の視点で 推測している。

卑弥呼の居所の条件

魏志倭人伝には卑弥呼の居所の描写が記されている。(章末に原文を記す)
ここから、どの遺跡が卑弥呼の居所に相応しいか読み取っていこう。
第1条件 建物構成
建物としては、宮室があり、楼観(見張り櫓[やぐら])があって、城柵に囲まれている。
このような建物群がある弥生後期〜古墳早期の遺跡を見てみよう。
九州の吉野ケ里遺跡と伊勢遺跡がこの条件に当てはまる。奈良の纏向遺跡を卑弥呼の居所と主張する 人もいるが、残念ながら、これまでに発掘された中央部に楼観がない。
第2条件 その他の建物
記述されている建物だけを見ていても不十分である。
魏志倭人伝には建物の存在が読み取れる個所がある。多くの兵が守っており、多くの侍女が身の 回りのお世話をしている。彼らの居場所あるいは待機場所となる建物も必要である。
また、鬼道を良くする卑弥呼が使ったと考えられる祭祀用の施設については触れられていない。
最高司祭者が行う儀礼や祖先への祀りが行われていた祭殿も傍にあったに違いない。
ここでは、このような祭祀建物を「主祭殿」としておく。
第3条件 聖域での独居
卑弥呼は一人で住んでおり、特定の男子一人が食事を給仕し、情報伝達のために出入りしている。
身の回りを世話する侍女も時々出入りするのであろうが、外に顔を見せることがほとんどない。
広い建物の一室に閉じこもっているとは考えにくく、部屋を使い分けて一人で住んでいるのだろう。
そのような神聖性を保ち、静かな環境が必要となる。

吉野ケ里遺跡と伊勢遺跡の建物

宮室、楼観、城柵を持つ吉野ケ里遺跡と伊勢遺跡を見てみよう。
縮尺を合わせて両遺跡の建物配置を示す。
建物の名称は、発掘主体が付けている呼称である。
伊勢遺跡:二重の柵内に、主殿、副屋などがあり、柵外に楼観がある
吉野ケ里遺跡:二重の環濠と柵内に、主祭殿、高床住居などがあり、物見櫓も柵内にある。
伊勢遺跡と吉野ケ里

吉野ケ里遺跡と伊勢遺跡は当てはまるか?

2つの遺跡の建物の仕様から、卑弥呼の居所としての可能性を述べていく。
ただし、吉野ケ里遺跡も伊勢遺跡も、発掘に関わる人や部署が「卑弥呼の居所」とは言っていない。
発掘された建物群が、魏志倭人伝の記述にどう対応出来そうか(第1条件)、その他附属建物はあるのか(第2条件)、卑弥呼の聖なる住まい(第3条件)に付いて、両遺跡の建物を当てはめてみる。
建物 伊勢遺跡 吉野ケ里遺跡
第1条件
魏志倭人伝
宮室(居所) 副屋(SB-2)      57u 高床住居      34u
楼観(物見櫓) 楼観(SB-10)最上部 20u
       基部  81u
物見櫓×3   15u/1棟
城柵 二重の柵 二重の環濠+柵
第2条件
推測
主祭殿
 高度な祭祀
 政治・統治
主殿(SB-1)     86u
 主殿
 なし
主祭殿       148u
 主祭殿 3階
 主祭殿 2階
祭殿 定常祭祀 祭殿(SB-3)     49u 東祭殿       24u
侍女・兵の居場所 楼観 2階(3階)  81u
(二重の柵外)
竪穴住居      38u
(二重の柵内)
厨房 楼観 1階      81u    ?
祭祀用倉庫 倉庫(SB04)     17u 斎堂        18u
第3条件
魏志倭人伝
聖域での独居 充分あり
居所・祭祀空間が生活空間と分離
各種建物が混在
プライバシー厳しい
その他 建物配列 方位を合わせた方形配列
⇒王宮に相応しい
規則性なし
注:吉野ケ里遺跡の建屋の用途は、吉野ケ里歴史公園 の資料による
  伊勢遺跡の建屋の用途は、田口の推測

卑弥呼の居所に相応しいのは

【伊勢遺跡】
楼観の役割を「物見櫓」だけとすると、下層部がこれほど広くなくてもよい。
下層部が何らかの用途として機能しているとすれば、それは何か?
第2条件として付与した、大勢の侍女、兵、おそらく交代で働いていた人たちの居場所、仕事場が 楼観の下層部にあるとすれば納得できる。
このように想定すれば、侍女達の場所の確保と、楼観が柵の外にあるので、卑弥呼の居住空間とが分離できて聖なる「卑弥呼空間」が確保できる。
【吉野ケ里遺跡】
機能的にはすべての役目を果たせる建物構成となっているが、侍女・兵の居場所としてこの竪穴住居 では狭い。侍女の待機場所としてだけなら可能かもしれない。
また、ほとんどの建物が混然と並んでおり、神聖性が必要な「卑弥呼の空間」を確保できない。
ただ、卑弥呼ではなく、人前に姿を見せる「吉野ケ里の王」ならば、この建物構成・配置で問題はないだろう。
【まとめると】
条件への適合性をまとめると、下記のようになる。
伊勢遺跡の中央部は、卑弥呼の居所としていろいろなん観点で相応しい
伊勢遺跡 吉野ケ里遺跡
第1条件 建物構成
第2条件 付随施設 △〜〇
第3条件 聖域での独居 ×
整然とした建物配置居 ×〜△
纏向遺跡の評価はここに入れなかったが、第1条件の楼観がないし、その他の条件も難しい。
参考までに、ページの最後に、纏向遺跡の建物配置を入れておく。

魏志倭人伝原文

魏志倭人伝では卑弥呼の居所について次のように書かれている。
自為王以來少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人給飲食傳辭出入居處
宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛

「王となりてより以来、見(けん)有る者少し。婢千人を以(もち)ひ、自ずから侍る。
ただ、男子一人有りて、飲食を給し、辞を伝へ、居所に出入りす。
宮室、楼観の城柵は厳く設け、常に人有りて、兵を持ち守衛す。」

ここから冒頭に記した3条件を抜き出すと;
第1条件[建物構成]
 宮室樓觀城柵嚴設:宮室、楼観の城柵は厳く設け
第2条件[その他の建物]
 以婢千人自侍  :婢千人を以(もち)ひ、自ずから侍る
 常有人持兵守衛 :常に人有りて、兵を持ち守衛す
第3条件[聖域での独居]
 自為王以來少有見者:王となりてより以来、見(けん)有る者少し
 唯有男子一人給飲食傳辭出入居處:ただ、男子一人有りて、飲食を給し辞を伝へ、居所に出入りす

参考 伊勢遺跡と纏向遺跡 の中央部建物の比較

纏向遺跡の居館域と推測されている場所には3棟の掘立柱建物が見つかっており、周囲は柵で
囲われている。
3棟が中心軸を合わせて並んでおり、その内の1棟が巨大なことから王の居館域と推測されている。
卑弥呼の居所という推測もあるが、魏志倭人伝の記述に合致するとは言い難い。 伊勢遺跡と纏向遺跡


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